ガイド

早戸 良成 准教授
武長 祐美子
(東京大学宇宙線研究所
神岡宇宙素粒子研究施設)

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カミオカンデシリーズで
生まれた2つのノーベル賞

岐阜県飛騨市の神岡町に「カミオカンデ」という実験装置が誕生したのは、1983年のこと。1996年には、今も現役の「スーパーカミオカンデ」が動きはじめました。2027年に完成予定の「ハイパーカミオカンデ」は、その最新型ということになります。これらの実験装置を通して、歴代の研究者たちがどんな未来を見て、どんな真実にたどり着いてきたのか。ここでは、その想いと研究の歴史を紐解いていきます。

写真左:梶田隆章 教授、写真右:小柴昌俊 教授

カミオカンデ:超新星爆発からのニュートリノを観測

当初は「陽子崩壊」を探索

カミオカンデは、のちにノーベル物理学賞を受賞する小柴昌俊先生が「陽子崩壊探索」を目的に計画しました。「陽子」は、私たちの体や物質を構成する原子の「核」を構成する粒子です。従来、「陽子は安定で、自然に他の粒子に変化したりしない」とされてきましたが、新理論では「陽子もいつか壊れる」という説が唱えられました。これが本当なら、宇宙中の陽子はいずれ寿命を迎え、遠い未来では新たな物質も生命も構成されなくなるかもしれません。何より、「陽子崩壊」を観測できれば、自然界にある力を統一する「大統一理論」の完成に一歩近づきます。これを何とかして観測する必要がありました。

陽子の平均寿命は約1030年で、現在の宇宙の年齢(約138億年)の100億倍の100億倍よりも長いと言われます。途方もない長さですが、大量の陽子を集めて観察すれば、何年かで崩壊を観測できる可能性があります。そこでカミオカンデでは、3000トンの水(陽子約1033個)をたたえた巨大タンクの内側に1000本の光センサー(光電子増倍管)を設置することで、水の中の陽子が壊れるときに生じるわずかな光の観測を目指しました。

カミオカンデ検出器の内部写真と概要図

4年後、ニュートリノの観測にシフト

1983年からスタートした実験によって、陽子の崩壊が見つからないことから、陽子に寿命があるとしても、当初の想定よりもさらに長いことがわかってきました。一方で、カミオカンデの性能の高さも実証されたため、当時注目を集めていた太陽から来るニュートリノの観測への利用が決まりました。ごくまれではありますが、ニュートリノがタンク内の水の粒子にぶつかったときにも、わずかな光 が生じるからです。装置を改造し、本格的に観測を開始したのは、1987年初頭のことでした。

それから間もない2月25日、ペンシルバニア大学から超新星爆発があったことを知らせるFAXが届きます。
「カミオカンデで、超新星爆発から来たニュートリノが検出できていないか?」
当時は観測データを磁気テープに記録し、10本たまるごとに神岡から東京大学の小柴研究室へと送っていましたが、すぐさま取り寄せて解析を行うことに。2月28日には、たしかに超新星爆発ニュートリノが観測されていることが確認されました。世界で初めて超新星爆発からのニュートリノをとらえたこの功績によって、小柴先生は2002年にノーベル物理学賞を受賞されました。

超新星爆発SN1987Aの爆発前(左)と爆発後(右)の様子。
(アングロ・オーストラリア天文台/Daved Malin撮影)

「数十年に1度の10秒間」をとらえたのは、ただの幸運?

私たちの銀河で超新星爆発が起こるのは、30~50年に一度。超新星爆発ニュートリノが降り注いだ時間はわずか10秒間です。その3分前には調整プログラムが走っていて観測できない状態だったこと、また本来であればこの日予定していたタンクの気密化工事の日程が遅れたこと、さらに翌3月には小柴先生の退官が決まっていたことなども踏まえれば、さまざまな幸運があっての成果だったと言えるかもしれません。しかし、小柴先生はこう言います。「ニュートリノはすべての人に同じように降り注いでいた。用意していたかどうかだ」と。

小柴昌俊 教授(2002年ノーベル物理学賞受賞)

スーパーカミオカンデ:ニュートリノの質量を発見

ノイズを調べるなかでの大発見

超新星爆発ニュートリノの観測よりも前の1986年、当時大学院生だった梶田隆章先生は、「陽子崩壊」を観測するうえでノイズとなる大気ニュートリノの数を調べていました。大気ニュートリノは、宇宙から降り注ぐ粒子(宇宙線)が大気中の陽子などとぶつかった結果生まれ、地上に降り注ぎます。その際、私たち人間や物質とほとんど反応することなく通り抜け、地下にあるカミオカンデに到達します。宇宙線と大気との衝突でできる大気ニュートリノは、ミューニュートリノと電子ニュートリノの2種類ですが、梶田先生はこのうちミューニュートリノの成分が予想値の半分ほどしかないことに気づきました。これこそ、のちのノーベル物理学賞の受賞理由にもなった「ニュートリノ振動」の兆候でした。

宇宙線が大気に衝突し、大気ニュートリノができる。

米大統領も演説で触れるほど話題に

そして、1996年にはカミオカンデの後継機種であるスーパーカミオカンデが誕生しました。以前は「ニュートリノ振動」に対する十分なデータが得られませんでしたが、スーパーカミオカンデなら1年の観測でカミオカンデ20年分のデータが取得できます。これによって、飛ぶ距離に応じてミューニュートリノの減り具合が異なることが明らかになりました。神岡上空からくる下向きのミューニュートリノは予想通りでしたが、地球の裏側からくる上向きのミューニュートリノは予想値の半分ほどしかないことがわかったのです。

1998年、「ニュートリノ振動」の研究結果は高山市で開催されたニュートリノ国際会議で発表され、喝采を受けました。「ニュートリノ振動」があるということは、ニュートリノの質量がゼロではないことを意味します。これは、標準理論と呼ばれる素粒子理論の定説を覆す大発見でした。翌日には「The New York Times」の1面を飾り、クリントン大統領(当時)もマサチューセッツ工科大学の卒業式での演説の中でこの発見に触れ、大きな話題を呼びました。

梶田隆章 教授(2015年ノーベル物理学賞受賞)

空席となった「3人目のノーベル賞受賞者」

この功績を受けて、梶田先生は2015年にノーベル物理学賞を受賞されました。ノーベル賞は、通常3名まで同時に受賞できますが、このときは2名のみ。残る1つの席は、2008年に大腸がんで逝去された戸塚洋二先生のために空けておかれたのではないかと言われています。

戸塚洋二 教授(スーパーカミオカンデ建設を主導)

戸塚先生は、「ニュートリノ振動」を実証するスーパーカミオカンデの建設を主導。2001年に半分以上の光電子増倍管が割れてしまう大規模事故が発生したときには、失意にくれる研究者たちに「1年で再建するぞ!」と号令をかけ、すでに病身であったにも関わらず強いリーダーシップで復旧を牽引されました。ノーベル賞受賞後、梶田先生は報道陣にこう語っています。「私の研究生活で一番辛かったのは、あの事故でした。本当に厳しい状況で、乗り越えられたのは、戸塚先生のリーダーシップあってのことでした。このことはぜひ、皆さんに覚えておいてほしいのです」。

ハイパーカミオカンデ:さらなる素粒子と宇宙の謎に迫る

新たな研究課題を追求する

「ニュートリノ振動」の発見によって、素粒子と宇宙について研究すべき課題はさらに増えたと言えます。たとえば、現在の宇宙はほとんど物質だけで構成されていますが、宇宙創生期には物質と出会うと対消滅する反物質も同じだけあったと考えられています。何も存在しない宇宙になっていた可能性も十分あるのに、なぜ物質だけが残ったのか? これは、物質と反物質の間に「CP対称性の破れ」と呼ばれるズレがあったからではないかと考えられています。その謎を解く鍵が、「ニュートリノ振動」にあるかもしれないのです。これをさらに詳しく調べるために、現在建設されているのが後継機種のハイパーカミオカンデです。

スーパーカミオカンデでも「ニュートリノ振動」を詳しく調べるために、茨城県那珂郡東海村のJ-PARC加速器で発射したニュートリノを295km離れた岐阜県飛騨市神岡町のスーパーカミオカンデでとらえる「T2K実験」が行われました。ハイパーカミオカンデではさらにこれを追求するために、J-PARCからのビーム強度を高める計画となっています。

現在建設中のハイパーカミオカンデは、2027年完成予定。

小柴先生が思い描いた大規模検出器の実現へ

一方、カミオカンデの当初の目標である「陽子崩壊」についてもハイパーカミオカンデで探索していく予定です。アメリカや中国でも同種の実験が計画されていますが、規模感および長年の経験というアドバンテージを活かしてリードしていくことを目指しています。

実は、1992年に小柴先生が発表した論文にはすでにスーパーカミオカンデを超える100万トン規模の検出器が提案されていました。当時から、「陽子崩壊」などを検証するためには大規模検出器が必要であると考えられていたのです。その後、ハイパーカミオカンデの形状は現在の縦長タイプ以外にも、横長タイプ、2基併設タイプなど、さまざまな案について長年検討が重ねられました。光電子増倍管の感度を高めるなど、さまざまな工夫によって26万トンの規模で小柴先生の構想と同等の精度を実現する見込みです。近いうちにニュートリノで宇宙の進化の謎が解ける可能性も、陽子崩壊で素粒子の秘密が明かされる可能性もあります。未知への挑戦は、次の世代へ。2027年完成予定のハイパーカミオカンデでの研究に、ぜひ注目していてください。